相田みつをは美空ひばりが紹介した?死後に詩が売れたきっかけを探る!

相田みつをといえば、その詩と独特の書体が人気で、若者から年配の人まで、多くのファンを持っています。

 

彼の作品が生前は全く売れず、死後に売れるようになったということは、あまり知られていません。

 

その作品を世に知らしめたのは、なんと美空ひばりだったというのです。

 

彼女は相田みつをの書のどんなところにひかれたのでしょうか。

 

美空ひばりは平成元年に52歳で亡くなっていますが、いつごろ相田みつをの作品に出会ったのでしょうか。そんな疑問もわきます。

 

ここでは、相田みつをと美空ひばりの縁を探ってみたいと思います。

 

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相田みつをのどこに美空ひばりはひかれたの?

相田みつをの作品によって元気をもらった、生きる勇気をもらったという声をよく聞きます。美空ひばりも同様だったのでしょうか。

 

美空ひばりが亡くなる前年に行った「不死鳥コンサート」では、体調が思わしくない状態で熱唱しました。

 

美空ひばりは12歳でデビューして「天才少女歌手」と言われてから、ずっとトップの位置にいました。「歌謡界の女王」と呼ばれていたんですね。

 

でも、突発性間質性肺炎の悪化による呼吸不全のため、52歳で亡くなります。平成元年(1989)年のことでした。

 

ほかにも肝硬変などの深刻な病気を抱え、亡くなるまでの数年は、病魔と闘いながら歌う生活でした。

 

そんな時、美空ひばりに相田みつをの作品を紹介したのが、萬屋錦之助(よろずやきんのすけ)だったそうです。

 

すでに相田みつをの書にひきつけられていた萬屋錦之助が、「つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの」という言葉を、病床にいる美空ひばりに贈ったというのです。

 

この書は有名ですよね。

 

萬屋錦之助が贈ったものは、色紙だったのでしょうか。くわしいことはわかりません。

 

美空ひばりの晩年を支えた相田みつをの言葉が口コミで少しずつ広がっていきました。そして、それまであまり売れていなかった彼の作品が売れるようになり、100万部を突破。

 

作品が全く売れていないころは、家計は火の車だったそうです。

 

そんな苦しい生活が続いていた時でした。1991(平成3)年、相田みつをは脳内出血で死去します。67歳でした。

 

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美空ひばりと萬屋錦之助との関係は?

映画デビューは「ひよどり草紙」(松竹)で、美空ひばりの相手役として出演。美空ひばりが所属していたプロダクションの制作でした。

 

美空ひばりの方が先輩だったのですね。

 

美空ひばりと萬屋錦之助には恋のうわさがありましたが、結婚には至りませんでした。

 

 

2人の関係は美空ひばりの晩年まで続いたようです。

 

東映の社員だった人が、こんなことを言っています。

一緒になることはできなかった。それでも2人の愛情は続き、ひばりさんが晩年、体を悪くした時、錦之介さんは毎日見舞いに行っていました。長年映画界に生きてきて、男優と女優、監督と女優というものは、時には本当に愛し合うことでいいものが生まれるというのが、正直な実感ですね。

ひばりと錦之助の恋の行方 | アサ芸プラス
ネットで読めるアサヒ芸能「アサ芸プラス」

 

 

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相田みつをの書が人を元気にする理由とは?

 

相田みつをの詩では、難しいことは言っていないんですよね。当たり前のことを言っている。

 

— 進ちゃんなのだ (@oJJpaEvMll3Tvoe) June 17, 2020

この詩には、ドキッとさせられます。自分をごまかせないなと思います。

 

短い詩の中に、メッセージがあって、受け取り方はそれぞれだと思うけど、生きる力みたいなものをもらえるのかな。

 

もう何年も前に相田みつをの作品集を買ったけれど、どこかに入ってしまっています。もしかして処分してしまったかも。探して、もう一度読んでみたくなりました。

 

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まとめ

 

相田みつをの作品を世に知らしめたのは、美空ひばりだったということです。

 

彼女に相田みつをのことを教えたのが萬屋錦之助でした。

 

深刻な病気を抱えていた美空ひばりが、晩年まで歌い続け、多くの人を魅了したのには、相田みつをの存在があったのかもしれません。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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